「悲しき映画は、涙よりして人を慰む」

2014/02/21

この頃(昭和3年)、水島あやめ(25歳)は自らの公開作品をノートにまとめてみたことがある。松竹蒲田に入って足かけ3年、すでに10数作が公開されていたが、そのほとんどが悲劇で、悲劇以外はわずか3作しかなかった。よくこれだけ「お涙頂戴」を書き続けたものだと、我がことながら呆れてしまったという。水島の作品に、母ものや少女悲劇などの「お涙頂戴もの」が多いのには、彼女なりの理由があった。

「初めは、どうせ最初からいいものなどは書けないし、人のものを何本見るより、自分のもの一本が映画になった方がどんなに勉強になるか知れない、などと思って、いわば勉強の材料にするために、甚だ功利的な気持ちから少々ぐらい拙くても比較的容易にパスするお涙物をねらったのであったが、幸か不幸か、それがひどくお客様のお涙をしぼったので、いつの間にか、我人ともにいい気になって、次から次へと同じようなものばかり書いて、書かされて、そしてとうとうこんなに沢山の悲劇ばかりを作ってしまったのだった。」(「芝居とキネマ」昭和3年11月1日号、P4「涙よりして人を慰む」)

水島自身、悲劇が好きだったという。それは幼い頃から母と2人で、身を寄せ合って生きてきた彼女の生い立ちにも因っていた。だから同じようなストーリーを何本書いても苦にはならないばかりか、むしろ気分が乗りペンが走ったのである。そしていい気持ちで涙を流しながら執筆する自分を「しようもないセンチメンタリスト!」と自嘲する。水島は続ける。

「しかし、世の中には、私のような人間も多いと見えて、私の所へ来る手紙には、泣くのを喜んでいると思われる手紙が非常に多い。もちろんそういうのはたいてい女の人であるが、これでみると世の中には、泣くことによって慰められるという人が、随分あることがわかる。…中略…
やっぱり女には、人知れぬ悲哀を胸に秘めている人が多く、それとたくさん泣くことによって、幾分でもその悲しみが和らげられるためであろう。
だから、私は、これからもやっぱり泣けるものを書く。どうせ、映画は娯楽品の範囲を出ていないのだし、ことに、それによって、同性の友の多くが、いくらかでも心を慰められるというならば、なおさらの事である。
そして、もし「同じようなものばかりよくもいい気になって書いたもんだ」という人があらば、蘆花氏の「哀音」ばりで、私は勇ましくかく答えようと思う。
―悲しき映画は、涙よりして人を慰む―」

映画制作の出発点に位置する原作者、脚本家であった水島の告白は、大正から昭和初期の女性たちの内面を如実に物語っている。

「芝居とキネマ」涙よりして

「芝居とキネマ」昭和3年11月1日号、水島あやめの記事「涙よりして人を慰む」の掲載号。

2014/02/21

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