解説・挿話カテゴリ: 水島あやめとは

父・隆雅の死

父・隆雅の死

2015年03月21日

水島あやめが27歳になった年の昭和5年10月28日に、父隆雅(本名高野団之助)が、東京下谷車坂の寓居で死去した。享年68歳だった。 新潟県南魚沼郡三和村(現在の南魚沼市)の旧家に生まれ、書画、俳諧等に通じ、全国を行脚する […]

故郷を想う

故郷を想う

2015年03月08日 , ,

水島あやめは、大正14年から昭和10年までのおよそ10年間を、松竹蒲田脚本部でただ一人の女性脚本家として活躍した。その間で、昭和2年から同5年が水島の脚本家としての絶頂期だったと思われる。年齢では24歳から27歳迄に当た […]

新人脚本家・水島あやめの決意

新人脚本家・水島あやめの決意

2015年03月01日 , ,

水島あやめは日本女子大学を卒業するとすぐに、松竹キネマ蒲田撮影所脚本部に入った。それは、長岡高等女学校の恩師たちの期待に応えなかったばかりでなく、良家の令嬢がつどう日本女子大学の校風にもそぐわぬ選択であった。なぜなら、当 […]

水島あやめの信念

水島あやめの信念

2015年03月01日 , ,

水島あやめ(本名高野千年)は、日本女子大学師範家政科4年の時に、小笠原映画研究所でシナリオを学び、その秋に「落葉の唄」(原作国本輝堂)のシナリオライターでデビューした。そして大学を卒業すると、そのまま松竹キネマ蒲田撮影所 […]

「蒲田調の確立」期に

「蒲田調の確立」期に

2014年08月17日 ,

水島あやめ(22歳)が蒲田脚本部に入った大正14(1925)年とは、松竹映画史においてどういう年であったのだろうか。「松竹百年史」によれば、大正13(1924)年から昭和2(1927)年までを「明朗蒲田調の確立」と題して […]

「仕事の苦しみ」⑤

「仕事の苦しみ」⑤

2014年03月26日 , ,

(つづき) 「どんな仕事だて、その中に入って、身心を打ちこんで、苦しみを感じない仕事などいうものはあるものでない。 苦しくない仕事、などいうものがあったら、それは、その人が一生懸命にならないか、または、苦しみを楽しみと悟 […]

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